日本財団海と日本海のまちプロジェクト

今こそ伝えたい海の民話アニメーション

インタビュー

07
大海原への畏怖を乗り越えていく、
漁師の現実的な生き方とは

成城大学文芸学部文化史学科教授
小島 孝夫
こじま たかお
1955年生まれ、埼玉県出身。専門は日本民俗学(生業論・環境論)。単編著に「海の民俗文化―漁撈習俗の伝播に関する実証的研究―」(明石書店)、「クジラと日本人の物語―沿岸捕鯨再考―」(東京書店)などがある。

「漁村等で暮らす人びとの更新性資源の伝統的な利用慣行の分析を通して、動植物等の天然資源を持続的に利用するための資源管理の思想」という、まさに今の時代にぴったりな研究をされている成城大学文芸学部文化史学科教授の小島孝夫先生に「日本人と海の関わり」を主体に話を伺った。

沿岸部と沖合いで漁をする人々 それぞれの海に対する感覚の違い

沿岸部や磯で海産物を採取することを職業とする方々と、沖合いで漁をする方々では感覚の違いはあるのでしょうか?

当然ありますね。海苔、昆布、ワカメなど沿岸部で採れるものは、基本的には畑の延長ですからね。潜水漁に従事する海女の調査をずっとしていますが、海女たちは改訂での操業ですが本当に畑の感覚で漁場を捉えていますね。アジロという自分の場所を持っていて、それを誰にも教えないようにするし見つけられないようにしていて、互いのそのことを了解し合っています。また、海苔やワカメは、今はほとんど養殖ですから、みんなが平等に設置場所を替える機会を得られるようにくじ引きで海面での設置場所を毎年決めていくわけです。ある意味ではおか(陸)の論理で沿岸の漁業は行われています。

農村に近い感覚なのでしょうか?

そうですね。例えば、地引き網漁などは、農家の人が主体となってやっていたものです。当然網元はいますが、地引き網を曳くだけのまとまった労力を提供できるのは、おか(陸)の人しかいないんですよ。沿岸漁業は、おか(陸)の延長で見ていったほうが分かりやすいですよ。
例えば、志摩半島の真珠養殖を始めた人たちは瓦職人の人たちが多いんですよ。沿岸で粘土が採れるところで瓦を焼いていたような人たちが、そこを拠点にして真珠養殖を始めていく。海とのかかわりとはまったく違うところから参入してきている。だから沿岸と言っても、海女みたいに本当に体一つで海の中に潜って水界で活動している人たちと、沿岸で海面利用という形で養殖に携わる人たちとの差異もありますが、沿岸で暮らしていく人たちには、地面の延長上として海があるという共通した意識があると思います。
そういう人たちに海坊主(海の妖怪)と言ってもピンと来ないだろうし、たぶんそういう実感はないですよね。やはりそれは沖で時化に遭うということに対する怖れから生まれるものですから。冬場に伊豆七島沿いにマグロを捕りに行ったような人たちにとっては、沖の漁というのはある意味異界魔界に行くことでもある。沿岸部で海藻類や貝を採っている人たちとはまったく違う感覚ですよね。

漁師にとって沖合は異界とか魔界といった感覚なのでしょうか?

「山なしの海」という言い方があります。沿岸と沖との境は何かというと、沖に出て山(陸地)が見えなくなったところが沖なんですよ。そうすると太陽とか、夜だったら月とか星を頼りにしなきゃいけない。
だから、同じ海で暮らしている人たちでも、おか(陸)を常に意識しながら働いている人たちと、そこから離れて沖で仕事する人たちとでは海に対する畏怖とか感覚は、まったく違ってくると思いますよ。

海は異界だから、迷ってしまってはそこで終わってしまう。

そういう感覚ですよね。ただ、うまくできていて、日本列島から赤道までは島伝いに航路を見出すことができます。だから沖合いでの操業では山や陸地を見ながら行く。陸地が肉眼で目視できなくても島がある場所に雲が立つので、それを頼りにしていけば島を見つけることができるのです。ただ、伊豆七島から先へ行ってしまうと危なくて、千葉県館山志の布良(めら)では、冬に伊豆諸島沿いにマグロを捕りに行った男の人たちの遭難事故が続いたため後家村(ごけむら)と呼ばれるようになりました。
そういう漁村の人たちの海への感覚は、やっぱり山(陸地)が見えないところまで行ってしまう漁業に根ざしたものですよね。

民話であれ伝承であれ、文字を前提としない社会や時代に、口頭で何が伝えられたかっていうと、そういうことをしちゃいけないよとか危ないよ、ということの教訓ですよね。
風が急に変わったら気をつけろとか、命にかかわることなので、ことわざ的に一言でわかるようなもののほうがむしろ有効なんじゃないですか。

日本海側だと白波が立つのを「ウサギが跳ねる」とか言いますが、白波が立ってきたら引き上げろといった、ある種の警告として使えるような事柄が、ことわざとして伝承されていくということになる。海の資源をどう扱うかとか、自分たちが海との関わりを長く続けていくためにはどうすればよいのかというような訓えの意味では、昔話的なお話になっていくのでしょうけど。

昔は、GPSもなくて沖に出たら目印もない状態で、陸地に帰りたくても、風が逆だったらすぐには戻れない。明治になり、漁船の動力化や機械化が始まりますが、それ以前は人力と風力でしか操船ができないので、おか(陸)が見えないところに行ってしまうっていうのはとんでもなく怖いことだったんですよ。

海での教訓はことわざのような形で主として残っているというお話ですが、例えばニライカナイの伝承などが、教訓めいた話として残るようなことはあまりないのでしょうか?

教訓というか世界観とか異界観みたいなものですよね。ニライカナイに関しては、鹿児島の与論島にずっと調査に行っているんですが、サンゴ礁の島で周りがリーフなので、ここまでは人間の世界だということが、視覚的に空間としてとらえられる。自分たちの生きている世界より先は異界という境界がイメージしやすいですよね。

自分たちの土地というイメージでとらえる場所がまずあって、その外側に行ったら危ないみたいな感じなんですね。

だから沿岸でも、浜と磯では違いますよね。浜は陸から地続きですが、磯となると、急峻で落ちたらおしまいみたいな空間じゃないですか。浜ならば地引網みたいなものができるんですよね。地引網って、網を持って沖に置いてくるのは確かに漁師たちであるけども、網を引き揚げているのは農家の人たちなんです。でも、磯では網を引くようなことはできないので、釣りをやるか、突いて捕るか。網でも旋き網とか、網が岩礁に接しないような漁法しかできない。そうすると意識も全然違ってきますよね。

骨まですべて活用できるクジラ 捕鯨文化に見る海の資源の循環

漁師が沖合いで漁をし、網を置いて、地引網で引き寄せて魚を分け、みんなで物々交換して、農村の人は帰って何か作ればそれを浜のほうに持って行き交換して、そんな資源や労働力のやり取りがあってうまく回っていたのですね。

たとえば、安房地方のツチクジラって江戸から近いところで捕っているのに、江戸に肉は一切出回らないんですよ。ツチクジラの一番の商品的な価値は鯨油なんです。江戸時代の鯨油の利用法は、田んぼに撒いて、ウンカ(イネの害虫となる体長5mmほどの昆虫)を叩き落して、虫を窒息させて駆除するというもので、そのためにツチクジラを捕っていた。夏場の漁なので、肉は傷みやすいのですが、安房地方の農家の人たちにとって夏場の貴重な動物性タンパク源なので、肉を薄く切って干して食べる「たれ」の文化(くじらのたれ:くじら肉を塩かたれ汁に漬け込んで干した千葉県南房総の郷土料理)が出来上がっていきました。でももっと大事なのは骨なんですよ。日本で捕鯨をやっているところってだいたいビワやミカンの産地なんですが、大量に実をつけるかんきつ類などにとってお礼肥えと呼ばれる、収穫が終わったあとの遅効性の肥料ってすごく大事なんです。クジラを捕っているところでは、みんな骨粉をお礼肥えに使っている。今は骨粉を作る技術もないし、手間が掛かるからやりませんけど、クジラを捕るのは肉や油だけじゃなくて骨まで使えるっていう陸からの需要にも応える資源の活用法が各地で定着していたからで、だからこそ日本の中で捕鯨文化が根付いてきたんだと思います。

こうした日本の捕鯨文化の総体については、国際的にもなかなか議論されることもないんですが、海の暮らしにはそういった資源の利用や循環とつながっているということを、子どもたちに伝えたいし、理解してほしいことですね。

そういったことから、子どもたちが海って大事だよねと理解していく、という流れがあればいいですね。

昔話には「淵に川の長(おさ)みたいな大魚がいて、そこに毒をまいて」といった話がありますが、本当に象徴的ですよね。川の淵だけではなく、実は海そのものがそういう場所なんですよね。現在の僕たちの日常生活って海に毒をまいているようなものじゃないですか。川を海に置き換えると、海に僕たちは日常的にゴミや毒となるものをまき散らしているという風に読み換えていくこともできる。陸と川と海とで循環的な関係を作っているわけですから、解決できない問題は、最後にはやはり広大な海に頼るしかなくなっていく。
でも海の浄化力にも限界はあるし、これ以上ひどい状態になってしまうと、もうおか(陸)も川も駄目になりますよね。

海のゴミというのは大問題ですよね。

最後の生命線は海なんですよ。海を守らないと地球環境は守れないっていうことを子どもたちを含めて多くの人たちが感じてくれればと思います。僕は授業で学生たちをクジラの解体の現場に連れて行くんですが、今は生き物が肉になる過程ってなかなか見られないんですよね。だから敢えて連れて行くんですが、学生たちがまず最初に「くさい」とかいろんな感想を言うんですね。でもそこで仕事をしている人たちがいるっていうことをまず理解してほしいという確認をしてから見学を始めるんです。

海って広いし、直接自分たちには関係ないって思ってしまうじゃないですか。沖縄に行けばきれいだなと思うかもしれないけれど、そのきれいな海でも肉眼では見えない汚染は進んでいる。いろんな物事の解決を最後は海の浄化力に任せるっていうような方法を取っていくだけだったら、それには自ずと限界があります。日本だけではなく他の国々も含めて、海の問題をどれだけみんなが自分の問題として意識できるようになれるのか。子どもたちにもそういうことを考え続けることの必要性を伝えていけるようになるといいですよね。

日本各地に存在するウミガメの墓 神の使いを供養することの意味

ところで、僕が編んだ本(明石書店『海の民俗文化』)の中で書いているんですが、カメの墓っていうものがあるんですよ。案外知られていないんですが日本中にあって、これは銚子の川口神社ですが、カメ1体ごとにこうやって墓を作っているんですよ。

墓石を見ると、誰がその墓を作ったかというのがみんな刻んであるんです。漁師たちがある意味競って作っていて、僕が見ている中では昭和61年のものが最後だったかな。

ウミガメのイメージとしては、浜に産卵して帰っていくということと、いわゆる浦島太郎伝説的なところですかね。そのお墓が漁師たちの手で作られて地上にあるっていうのは不思議ですね。

今のお話にあった三つの内容は大体重なるんですよ。浦島伝説と、産卵地と、カメの墓の分布地はほとんど一致する。北半球でアカウミガメが産卵しているのは日本列島だけで、ウミガメって母浜回帰という習性があり生まれた浜に戻ってきて卵を産みます。日本列島で産卵するというのは、海流を利用して太平洋をぐるっと回遊することができるので、ものすごく効率がいいんです。だからこれはほとんどがアカウミガメの墓です。アオウミガメだと小笠原諸島などもっと南のほうが生息地になってくるし、タイマイとかだとまた生態が違うので。

ウミガメのイメージとしては、浜に産卵して帰っていくということと、いわゆる浦島太郎伝説的なところですかね。そのお墓が漁師たちの手で作られて地上にあるっていうのは不思議ですね。

もっと現実的である意味でしたたかなんです。それが漁師の、ある種の根本的な生き方だなと思って、ずっと調査していたんですが、ウミガメの墓って、九州や沖縄にはあんまりないんですよ。向こうでは食料として利用されてきましたから墓を建てるという発想にはならない。ウミガメの墓の分布は、日本海側は九州の福岡あたりから京都くらいまで、太平洋側は大分あたりから茨城のいわきあたりまで。そして、少なくともこういった銘を刻んで建てるようになるのは明治40年代のことです。

時代的には新しいものなんですね。機械化が進んで大規模化する中で間違って網にかかるカメが出てきて、神様の使いだから「ちゃんとお墓を建ててやったから来年も大漁だ」みたいな理由ですか?

背景としてはその通りで、ウミガメは海の神様のお使いですから、漁師はすごく大事にするんですよね。
漁船の動力化が進んで、人力や風力であれば巻き込まないように避けることができたのが、イワシ漁で機械化が進むと、ウミガメも網に巻き込まれるようになって、船倉にイワシと一緒に放り込まれると圧死してしまうんですよ。漁師たちはそのカメを弔うために、こういう墓石を建てるようになったんですね。
ただ、漁師たちの思いはもっと現実的で、要するに海で生きているカメはみんなにとっての神様の使いだけど、自分がきちんとお祀りすれば自分だけの神様になってくれる、という思いがあるんですね。だから、墓に船名や船主の名を刻むことで、誰が建立した墓かということが分かるようにしておくんですよ。ある意味神様を私物化してしまったっていうことなんですよね。ただ弔うというだけなら丸石を置いておくだけでもいいわけだし、それできちんと埋葬して供養したってことでもいいんだけど、それだけでは終わらない。こういうことが、一つの習俗として伝承されてきたんだろうと思います。

捕獲されたオサガメのたたり? カメの墓が生まれたきっかけとは

これは、川口神社に奉納されてるオサガメの絵馬なんですが、オサガメというのは、日本にはほとんど回遊してこないカメなんですね。このウミガメを、明治43年7月14日にその当時の千葉県水産試験場の船が捕獲してきちゃうんですよ。

そのカメを、見せ物にしたっていうのと食べてしまったっていうのと二つの伝承があるんですが、とにかく珍しいものが見つかったからっていうので、この絵馬を奉納したらしい。ものすごく大きな、一間幅(1.81メートル)の絵馬なんですが、こういった物が奉納されたのと、ウミガメの墓が建ち始めるのが、時期的にほぼ重なるんですよね。明治43年7月16日の『千葉毎日新聞』にもオサガメが捕獲されたことが記事になっているんです。

体長七尺、胴回り八尺。これは大きいですね。

とにかく大きいし、みんなが見たことがないカメなんです。アカウミガメなら決まった個体が必ず同じ浜で産卵をするので、漁師たちはずっとそれを見ているから、ものすごく細かいことまで分かっていて、甲羅に傷があるやつがまた帰ってきたとか、カメに対してものすごく親しみを持っているんですよね。ところがこんな見たこともないような、とんでもないカメが捕獲されちゃったんですよ。

捕ってきたのは坂東丸(ばんどうまる)という船ですが、捕ってきたその年の暮れの大時化で坂東丸は遭難して乗務員も船体も見つからず、千葉県館山市の北下台というところに「坂東丸船員殉難碑」が建っているんですよ。この背景が興味深くて、この船には銚子の人は誰も乗っていないんですよ。当時の最新鋭の船だったので、全国各地から秀でた漁師たちを集めて出漁していたらしいんですが、そういう人たちが乗っていてカメを捕ってきた船が遭難してしまった。

地元の関係者が乗務員でなかったことで、当時の銚子ではカメの祟りという伝説、伝承が生まれるんですね。漁師たちがカメを自分の守り神にして祀りあげようっていうことの動機付けをより強くさせた事由がこのあたりにあって、やっぱりウミガメというのは海の神様のお使いだから大事にしなきゃいけないという気持ちをより強くさせたんだと思います。

銚子では、このようにカメの墓が発生したことがこのオサガメの話ときれいにつながるんですが、それ以外にも本州には広い範囲にカメの墓が分布しているんです。

銚子から伝播したというわけではないんですか?

沖で漁をする人たちの間で、「カメの枕」という慣習が各地で行われていましたので、ウミガメ信仰みたいなものが広がっていたということがあったかもしれないですね。漁師たちとしては、浦島太郎の話もそうですが、ウミガメは神様のお使いだと位置付けていますから。

船の乗組員が全国から集められた方々だったら、その人たちの関係者の間で津々浦々に伝わっていったのかもしれないですね。

とにかくこれは、動力船が定着する前の話で、試験場がものすごく立派な見たこともないような最新鋭の漁船を造って、試験操業で見たことのないオサガメを捕まえてきて、その年末には遭難して消息不明になってしまったという一連の出来事はとても大きな衝撃を与えたと思います。

それは当時の人からすると、カメのたたりだと思っても仕方がないですよね。

明治43年はハレー彗星が地球に再接近した年でもあるんですよ。人びとがある種のそういった超自然的なことを信じ込んでしまうような要素が二重三重に重なっていたとも言えるんじゃないでしょうか。
それらが契機となったウミガメの墓の建立習俗が継承されることになり昭和60年代まで続いたことになります。カメの祟りとまでは思わないにしても、死なせてしまったカメをきちんと祀っていくことが伝承されるようになったわけですよ。

時期的にはこれ以降全国に広まった形になるんですか?

僕が調べた範囲では、石塔を建てて所有者が誰であるかを刻むという風になるのは、全国的にだいたい動力船の普及以降ですね。それ以前にカメを祀っていたところもたぶんあるんですが、それはただ丸石を置く程度のものですね。

たたりを回避することが転化して、ご利益を得られるように祀って供養するという形になっていったんですね。

それが海で生活の糧を得る人たちが生きていくための、ある意味でのしたたかさであると思いますし、もしかしたら人間というのはそもそもそういう存在なのかもしれないですね。

まとめ

漁村や漁港を自分の足で巡り、多くの事物を調査されてきた小島先生ならではの、漁師たちや海辺で生きる人々の海への向き合い方や我々から失われつつある海への畏敬の念など、興味深いお話が伺えた。ウミガメの墓を漁師たちがこぞって建てたという逸話からは、海への感覚を共有する人々ならではの伝承が生まれ、受け継がれていった様相をうかがい知ることもできるのではないだろうか。

2023年2月2日公開、2024年3月19日再掲載
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